厳しいお尻叩きの体験談二編 ~スウェーデンから~ - しりはた
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厳しいお尻叩きの体験談二編 ~スウェーデンから~

翻訳
09 /18 2016
「厳しいお尻叩きの体験談二編 ~スウェーデンから~」を翻訳しました。
タイトル通り二編構成で、「ガブリエラ」と「ウルリカ」、スウェーデンで育った二人の少女の体験談が一緒に収録されています。

以下のサイトで原文が読めます。
spankingjourney.blogspot.com

まず、上記サイトの管理人マーカス氏が、スウェーデン語のお仕置き体験談を集めるサイトに寄せられた体験談二編をまとめて英語に翻訳し、今回自分がそれを日本語に重訳したことになります。
二つの物語がひとつにまとめられているのは、そういうわけなのでした。

「ガブリエラ」
F/f(一部FM/f)で母/娘。道具は平手、ヘアブラシ
「ウルリカ」
M/fで父/娘。性描写あり。道具は平手、ヘアブラシカーペット叩き

訳していて思ったのですが、やはりですます調は子供時代の雰囲気を喚起させつつ、エロチックで訳しやすい文体ですね。これから訳すものにも取り入れていきたいと思います。



以下、翻訳です。
------
厳しいお尻叩きの体験談二編 ~スウェーデンから~

私はスウェーデンでお尻を叩くお仕置きを禁止する法律が制定されたあとに生まれました。だから、私のお尻叩きに関する知識は限定され、少しばかり抽象的なものにとどまっています。私が理解するところでは、お尻叩きの罰は(そう遠くない)過去、かのスウェーデンにおいてさえほんとうにありふれたものだったようです。私はその頃のお仕置きについて書かれたことに興味がありますし興奮を覚えてしまいます。たぶん私が歴史から学びたいこと、人々の暮らし方、人々が考えていたこと、もろもろがほんとうはどんなものだったのかという興味関心が、お仕置きフェチの私の趣味と結びついてしまったのかもしれません。どんな風だったか探るために、私はインターネットでその頃のお話を探しました。今回お届けするのはスウェーデン語のサイトでみつけたお話です。このお話が事実そのものなのかはわかりません。少しおおげさに書かれているところもあるかとは思いますが、少なくとも事実をベースに書かれているのは確実でしょう。結局のところ私は当時のことを知らないのですから、判断するすべがないのです。どなたかスウェーデンで生まれ育ったご年配の方で、この体験談が実際に起きた出来事を正確に反映しているものなのかどうか、そしてこの体験談で描かれるお仕置きが当時の一般的な家庭で行われていたお仕置きなのかどうか、教えてくださるといいなと思っています。もし当時のお仕置きについて何か知っている方がいらっしゃいましたら(スウェーデンでも、どこの国でもかまいません)、ぜひとも教えていただきたいと思います。

読者の皆さんへ:体験談を読む限りでは、40年前から60年前のスウェーデン、特に田舎の信仰心の篤い地域に住む親たちは頻繁に子供たちのお尻を叩いていたようです。私マーカスはいくつかを英語に翻訳してみました(ここで語られている話は、躾けの一環としてお尻を叩かれたことのある年配のスウェーデン人が書いている実体験だと私は思っています)。[訳注:以下、サイト上で添えられていた絵についてのコメント] 文中の絵は、私がずっとコンピュータに保存していたコレクションの一部なので、体験談の中で使われている道具と絵の中の道具がたびたび一致していないのは、御愛嬌ということでお許しください。

まずお届けするのはスウェーデン南部を舞台としたお仕置きの体験談です。


ガブリエラ:ブラシのお仕置き

 私は1950年代のスモーランド(ストックホルム南部の州)で育ちました。1950年代はお尻を叩くお仕置きがまだ一般的だった時代です。私自身も子供のころは頻繁にお尻を叩かれたものでした。私達三姉妹のお仕置きは母が担当し、男の兄弟のお仕置きは父が担当することになっていました。父はいつもベルトを使い、ごくまれに私達女の子にもベルトでお仕置きをすることがありました。

 お尻を叩かれることが決まると、私達女の子はいつも両親のベッドルームに行くように指示されました。そこで母が来るのを待つのです。母はこれから起きることをしっかり考えさせる時間を与えるために待ち時間を設けるのが常でした。永遠にも思える時間が経ってから、母は寝室に厳しい顔で姿を見せるのでした。

 「ガブリエラ、悪い子には何が待っているのかわかっているわね?スカートをウエストまであげてパンツを下ろしなさい!」

 平手でお尻を叩く場合、母はベッドに座り、私達は彼女のひざに腹ばいになりました。

 お風呂用の木製ブラシでお尻を叩く時には、母はベッドのフットボードにいくつか枕を積み重ねました。そうして私達の上半身をベッドの上に乗せると、まくらが腰の位置を高くするおかげで、背中は反り返り、お尻は空中に高く突き上げられる格好になりました。私たちのふとももから下はフットボードにぴったりついて、両足は床に届いていました。いつも母は私たちに脚を開くように言いました。そうすることで、私がお仕置きのときにお尻をひきしめるのを防いだのです。脚を開くと、ぶたれる痛みはひどいもので、ブラシがお尻を打つときにお尻をひきしめられないとなると、もう叫ばずにはいられませんでした。お尻を叩かれる間両脚を開くように言われているのは自分だけだと私は当時思っていたのですが、インターネットを回ってみてかなりの人が同じ体験をしているのを知りました。

 母は数分間ものすごい勢いで私達のお尻をひっぱたいたので、お尻とふとももの全域にわたって数百の平手が降り注ぐことになりました。それがお仕置きの普通でした。思春期に入り木製のブラシが使われだすと、50発以下で済まされるようなことはまずありませんでした。もし私達がお仕置きの最中に泣き喚いたり、両脚をぴったり閉じたり、手でふせいだり、身体をよじって転がるそぶりをみせようものなら、そのひとつひとつにつき10発の追加罰が宣告されました。さらに、母に25発ぶたれる前に泣き喚いた場合には、特別ルールとしてお仕置きは最初からやり直しになりました。何度も何度も追加でお尻をぶたれると私は自分の意思を制御できずに「泣き喚く」のを止められなくなってしまい、追加罰に追加罰が重ねられることになりました。そんなときは母は父を呼んで私を押さえつけさせて、そうしてお尻へのお仕置きは続行されました。

 そうなると私は大声でわめき、叫び、涙がとめどなく頬を流れ落ちたけれど、母はまるで機械みたいに私のお尻を痛めつけ続け、定められたすべての数が与えられてはじめてお仕置きは終わるのでした。その結果は悲惨なもので、私のお尻は黄色と紫のあざで覆われ、皮膚は赤黒く変色していました。すべてが終わると、私は泣き腫らした顔で母の手にキスをし、一礼して、お仕置きのお礼を言わなければなりませんでした。そして自分のベッドへとまっすぐ向かったのでした。


 冒頭の体験談サイトから、もうひとつご紹介。今紹介した体験談よりも厳しいお仕置きで、今度の舞台はスウェーデン北部となっています。


ウルリカのお仕置き

 私はウルリカ、今年で53歳になります。私はあなたのサイトに寄せられた体験談を読み、私自身の少女時代を語ってみようと思い立ちました。私はお尻を叩かれて育ち、リサと同じく(原注:ある体験談の筆者)両親についてはあまり快くは思っていません。それでも、リサと同じく私はお尻叩きに魅力を感じ、性的な興奮を覚えるのです。

 私はスウェーデン北部で育ちました。小さな村で、私達の両親含めて信仰心の篤い人たちでした。子供達は総じて、厳しい両親の元で躾を受けていて、お尻を叩くお仕置きはまったくありふれたことでした。クラスメイトが教室でイスに座るときに顔をしかめるのを目にすることも多々ありました。それを見て、前日お尻を叩かれたのだなと私達は納得したものでした。

 私達は教会に毎週通い、そこでは牧師さまが、子供達が悪さをしたときには鞭を惜しむなと親達に奨励していました。ことお尻叩きに関しても私達の両親も皆と同じように振舞いましたが、今となっては私はそういう行為を「お尻叩き」とは呼びたくはありません。それはどちらかというと虐待に近かったからです。とはいえ当時は子供のお尻を叩く行為は違法ではありませんでしたから、私たち子供が何か言えることはありませんでした。悪さをしたらお尻を叩かれる。私たちはその事実を受け入れるしかありませんでした。初めてお尻を叩かれたのがいつなのか私は思い出せませんが、そのとき以来ずっと、お尻叩きとともに私は子供時代を過ごすことになったのでした。

 私が幼いときには、両親のどちらも私のお尻を叩いたものでした。たいてい私はひざに乗せられました。家の外は別ですが、たいていの場合むき出しのお尻にお仕置きを受けたと記憶しています。家の外では、スカートをあげるかズボンをおろされるだけで済みました。両親は私のお尻が真っ赤になるまで叩き続けました。そして、私が泣きじゃくるまでお仕置きは終わらなかったのです。同じように叩かれて育った母によれば、大事なのは子供の意思を打ち砕くことなのでした。つまりお仕置きは、子供が完全に精も根も尽き果て、自分のむきだしのお尻が燃えるように痛んでいても、身体を動かさずぐったりと横たわるしかないような状態になるまで続けられたのでした。

 私が少し大きくなった頃、10歳から12歳ごろでしょうか、両親はより重大な「悪さ」を私達が犯したときには、木製のヘアブラシをお仕置きで使うようになりました。祖母は、私がお仕置きを受けたのと同じヘアブラシで少女時代の母をお仕置きしていました。私は祖父母の目の前でお仕置きされることも珍しくなかったのですが、ある時10歳くらいの頃、お仕置きが済んだ私が母のひざから降りたとき、祖母が母に向かって言ったのです。

 「ウルリカは大きくなったのに、お前はまだ手でお仕置きしているのかい?お前はこの子を甘やかしているよ。ウルリカの年にはお前はヘアブラシでお仕置きされていたのは確かだよ」

 「はい、はっきり覚えています」と母。

 「私の家には、まだそのブラシがとってあるよ。持ってきてあげるから、ウルリカが悪さをしたらそれでほんとうのお仕置きをしておやり」
 
 それを聴いて私は怖くなり、一層激しく泣いたのでした。そしてそれからというもの、私はヘアブラシの痛みを思い知ることになったのです。

 ヘアブラシはこれまでと比べてとても痛い代物だったけれど、数年たって私はそれに慣れてしまいました。14歳のとき、私のお尻を痛めつける新しい道具が導入されました。以来、何か普段よりひどい「悪さ」をした時には、カーペット叩きでお仕置きされることになりました。いつもカーペット叩きでぶたれるわけではありませんでした。ひざに乗せられヘアブラシでぶたれる機会もまだ残っていました。私はカーペット叩きのお仕置きに慣れることはできませんでした。それでぶたれるのはとてもひどい体験でした。最後に叩かれたときですら、私は最初に叩かれたときと同じようにそのお仕置きに恐怖し、頭はお仕置きのことでいっぱいになりました。その最後のお仕置きは、私が21歳を迎える数週間前のことでした。

 さらに両親は、恥ずかしい思いをさせることは痛みを与えるのと同じくらいお仕置きの大事な要素であると確信していました。それで、私が思春期に入り大人の女性に成長していく時期を迎えると、私のお尻を叩くのは父の役目になりました。想像してみてほしいのです。大きく成長した少女が父親の前で裸を強制される恥ずかしさを。特に、カーペット叩きのお仕置きを受ける時の姿勢は耐え難いものでした。

 これから私は16歳から17歳のころに自分が受けたお仕置きの体験を語ろうと思います。何か悪さをすると父は言ったものでした。

 「よろしいウルリカ、あとで父さんと特別なお話が待っているからね」

 「お話」という言葉は、父の膝かベッドに横たわってしこたまお尻を叩かれることを意味していました。当時私はヘアブラシでもカーペット叩きでもお仕置きを受けていました。通常どちらの道具でお仕置きされるのか告げられることはなく、私は自分の部屋にお仕置きの用意に向かいました。お仕置きの用意というのは、靴下とブラを残してほかは全部脱ぐのです。そして私は待たされました。父はまるまる一時間も私を待たせることだってありました。ほとんど全裸の状態でベッドに座ってお仕置きを待つのは耐え難いもので、どんどんと恐怖がつのって大きくなっていきます。父さんは5分で来るの?それとも20分?1時間?私の胸の中は不安と恐怖でいっぱいで、お漏らしをしてしまいそうなくらいでした。私は膝の上でヘアブラシでお尻を叩かれるの?それともあのカーペット叩きでぶたれるの?何発?父さんは数を教えてくれる?私は叩かれる数を数えることになるの?

  そしてついに、父が階段をあがる足音が聞こえてきました。父が私の部屋にすぐ入ってくる場合には、厳しいヘアブラシのお仕置きが待っていました。そして、もしも部屋に入ってくる前に間があり、廊下のクローゼットが開く音がしたのなら、父が持ってくるのはカーペット叩きなのでした。

 とんとんとん。足音が私の部屋の外で響き、それから静かになりました。私は部屋のドアハンドルをじっと見つめ、いまにもそれが下がるだろうかと期待して身を硬くして待ちます。とんとん、とまた足音がして、きぃと高い音。廊下のクローゼットが開いた音です。私は凍りつきました。これから私のお尻にふりおろされるのはカーペット叩きだと確定してしまったからです。父がドアを開けました。その手にはカーペット叩きが握られていました。私はすぐに立ち上がりましたが、両脚はぶるぶると震えていました。

 「わかるね。父さんと母さんはよく話し合って、今日はお前をカーペット叩きでお仕置きすることに決めたんだ」

 「父さん、あたしいくつお仕置きされるの?」

「そうだね。お前が十分懲らしめられたと父さんが判断するまで、お前が抵抗しなくなるまでだね。だから、今日は数を数える必要はないよ、お嬢さん。」

 これは、最悪のお仕置きが待っていると宣言されたことになります。ぶつ数を言ってくれないということは、今日はたくさん叩くのです。そしてなによりも、私が自分でぶたれる数を数えなくていいということは、お仕置きがとてもとても厳しくなることを意味していました。父は、叩かれる数が多いときには、私が結局回数を数えられなくなることを知っていたのです。ひどい痛みに襲われた状態では、私はいまだに数をきちんと数えることができないのでした。

 「よろしいウルリカ。枕を出しなさい!」

 「はい父さん」

 私のタンスにはとても分厚くて硬い枕がひとつ入っていました。私はカーペット叩きでお仕置きされるときにその上に身を横たえるのです。私は枕を取り出しベッドの真ん中に置きました。

 「ベッドに伏せなさい!」

 私はベッドにあがると、おへそより下を枕にあてがうようにして身を伏せました。それから私は父の次の指示をそのまま待ちます。その指示で、私はお尻を考えられる限り一番恥ずかしい位置に持っていかなければならないのです。

 「ウルリカ、少し前に移動しなさい」

 私は体を前に移動させました。動く前よりもお尻が上に高く突き出されたのを感じます。

 「良い子だね。お仕置きの姿勢をとりなさい!」

 ああ、もう許して…。このおなじみの姿勢をとるのはほんとうにつらいことでした。私は両腕を前に突き出しベッドの端をつかんで、顔をマットレスにうずめました。そして背中を反らして、脚を開いたのでした。ひざとひざの間が50~60cmくらいになるまで両脚を開いたときには、私はすでにぐすんぐすんと鼻を鳴らしていました。今とっている姿勢が、カーペット叩きでお仕置きされるときに叩き込まれた基本姿勢でした。お尻は体のどのパーツよりも高い位置にあってお仕置きを待っていました。私には、この姿勢がどんな風に見えているか、そして父の前に私がどんなものをさらけだしているか、痛いほどわかっていました。高く突き出されたお尻の割れ目は開かれて、いまや秘部は秘部ではなくなり、私のあそことお尻の穴は両方とも白日の下に晒されていました。「下の唇」までもその口を少しばかり開いていたのです。

 「よろしいウルリカ、はじめるよ。脚を閉じたり、お尻を動かしたり、ベッドから手を離したりしたら、父さんとお前は明日もう一度お話しすることになる。いいね?」

 「はい父さん」 か細い声で、私は答えました。

 もし私がお仕置き中の決まりを守れなかったなら、次の日私を待っているのは追加のお尻へのお仕置きでした。私が脚を閉じ合わせてしまうたびに、ベッドから手を離してしまうたびに、次の日に受けるお仕置きが6発ずつ増えていきました。それも、今とまったく同じ姿勢で、カーペット叩きでぶたれるのです。もし父が私に厳しくて長いお仕置きを与えたら、必ず私が決まりを破ってしまうことは父にも私にも明らかでした。私は疑っているのですが、父は次の日も私のお仕置きを楽しめると言う理由で、私が決まりを破るまで厳しく長くお仕置きを与えることもあったのではないでしょうか。

 父はカーペット叩きを私のお尻にしばらくあてがったあと、軽くぴたぴたと当てました。それから父は私のお尻をカーペット叩きでなでるのです。こうしてなでられると私の中におかしな感覚が湧き上がってくるのでした。おなかの下のほうでそわそわする感覚がどんどん大きくなり、私のあそこはうずきはじめるのでした。私の性器のすぐ近くをカーペット叩きがなぞる感覚に私は興奮していました。あそこの唇は開き始めクリトリスも硬くなっています。当然この変化が見えていたはずの父は、この姿勢で私をお仕置きを加えた全期間を通じてひとこともそのことを口に出しませんでした。大きくなるにつれてどんどん私はお仕置きに感じるようになっていきました。20歳になってからはあそこを濡らしてさえいたのです。

 私はカーペット叩きがお尻を離れたのを感じ取り、一発目の衝撃に備えました。リラックスするように努めてもほぼ無駄でした。私はぎゅっと目をつむり、歯を食いしばって、ベッドのフレームを固く握りました。パーン!一発目は大きく開かれて皮膚が張り詰めたお尻に弾けました。一瞬何も感じない時間が過ぎたあと痛みと熱さが襲ってきます。私は声を立てず歯を食いしばります。シュッ、パーン!次の一発は同じ位置に当たりました。お尻の真ん中です。まだ私は声をださずにがんばります。シュッ、パシーン!!今度の一発は左のお尻に命中し、カーペット叩きの先端がふくらみに沿うように巻き込まれて、お尻の割れ目の内側、性器のすぐ近くに当たりました。うぐっ。私はうなり声をあげますが悲鳴はあげません。ビシーーッ!「っあ゛あ゛っ!」 同じような位置にふりおろされた一発、今度はカーペット叩きのへりがお尻の穴のすぐ近くに当たりました。この痛みはとてもひどくて、私はついに叫び声をあげてしまいました。ビシッ、ビシッ!!「ああああ、あ゛あ゛ぁっ!!」 お尻の真ん中に間髪入れずに二発が振り下ろされました。「あぐ…」私の口からかすかな叫びが漏れ、涙が自分の頬を伝わって流れ落ちるのがわかります。ビシーッ!!今回の一発は右ふとともにあたり、父はいまや力いっぱい私のお尻を打つモードに入ったようでした。「やああっ!」大きな叫び声をあげてしまいます。ビシャッ!父の全力が左ふとももに叩き込まれ、カーペット叩きのはじが性器のすぐ近くをしたたか打ちます。私は我を忘れ、さらに大きな声で「ぎゃああああっ!」と叫びました。涙はもはや止まらず、泣くのを止めることができません。ビシッ!!ビシィ!ビシッ!!「あああっ!」「ああ゛っ!」「ぎゃあああっ!」 またもやお尻の真ん中めがけて、矢継ぎ早に3発が打ち込まれました。ここにいたって私は泣き喚きはじめ、涙は次から次へと頬を転がり落ちていきます。ビシ!ビシャ!二発が右のお尻を直撃します。ビシーン!!次は左のお尻に一発、これがお尻の穴を直撃しました。「ひいっ、うあああっ、ああああ゛っ」私は声を限りに叫び、我を忘れて泣き叫びはじめました。なんとか全力を尽くして脚を開いておこうとするのですが、痛みがあまりにもひどいので体が勝手に動いて脚が閉じてしまいました。父は打つのを少しやめて、私が落ち着きを取り戻すのを待っています。

 「ウルリカ、明日も「お話」だ。いいね?さあ、脚を開きなさい!」

 私は脚を開きなおしました。父はまたしてもカーペット叩きを振り上げ、網の目状に跡がついた私のお尻に正確に狙いを定めてきます。私の叫び声と痛みに耐えるうなり声は家中に響き渡り、カーペット叩きが振り下ろされるたびに私は頭を振り上げるのでした。父は次の一発を振るう前に、私がお仕置きの姿勢に戻るまでじっと待っています。もう私は涙を止めることはできませんでした。涙は洪水のようにあふれて頬をぬらしており、マットレスをびしょびしょにしていました。お尻とふとももに何発も何発も打ち込まれて、私はベッドから手を離しお尻をさすってしまいました。私がそうしてしまった回数を父はしっかりと数えているのでした。その後何発か打たれたあと私の気力はついに底をつき、涙の出るがまま激しくしゃくりあげた状態になって、腫れ上がり皮膚が擦りむかれて激しく痛むお尻に雨のようにカーペット叩きが降り注ぐ中、か細い声でかすかな叫び声をあげるだけになってしまったのでした。ひどくぶたれた皮膚はところどころ血がにじんでいました。永遠とも思える時間が経ち、お仕置きは終わりました。私は動くことができず、お尻をこのお仕置きのために持ち上げてくれた枕の上にただ横たわっていました。 

 「ウルリカ、父さんはお前のお尻を38発お仕置きしたよ。ひどくぶったけれど、悪さをした子には当然の報いだと父さんは思う。お前はお仕置きをきちんと受けられなかったから、残念だが父さんとウルリカは二人でまた明日ここでお話だ。明日の晩18発お仕置きすることになる。何か父さんに言うことはあるかい?」

 「父さん、お仕置きありがとうございました。わたし、お仕置きをちゃんと受けられなくてごめんなさい」

 「良い子だ、ウルリカ。母さんに言って塗り薬を持ってこさせるからね」

 父は私の腰あたりをぽんと叩き、おでこにキスをして部屋を出て行きました。数分して、母が私の部屋に入ってきました。母はベッドの私の隣に座り、頭をなで抱きしめてくれました。
 「なんてこと、ほんとうにかわいそうに。ひどくぶたれたのね。どんなに痛むか母さんもわかるのよ。おじいちゃんは本物の籐鞭で私の裸のお尻をぶったのだもの」
 私は母のほうを見ました。母は泣いていました。私がカーペット叩きでお仕置きされるとき、母はいつも悲しんでいました。母は私のお尻を濡れたスポンジで洗うと、軟膏をつけてマッサージしました。それからアスピリンと水を持ってきてくれました。

 「つらいだろうけど、お眠りなさい」

 私は震える足で立ち上がり、枕とベッドカバーをどかしました。そうして敷布の下に這い進むと、おなかを下にして横たわりました。泣きやむことはできませんでした。30分が経ち、私の泣き声はかすかなすすり泣きに変わっていきます。焼けるような痛みが去り、またしてもうずく感覚が湧き上がってきました。私はお仕置きを振り返るのをやめられませんでした。このベッドに寝そべって、お尻を突き出し、カーペット叩きにさんざん痛めつけられた自分のさまを思いました。私は背中を弓なりにそらして、さっきぶたれた時と同じ姿勢をお尻にとらせました。手をあそこに伸ばすと濡らしていました。私は中指と人差し指をあそこに挿れて、激しく抜き挿ししました。左手にはクリトリスを愛撫させて、そのまま空想にふけったまま私は絶頂を迎えたのでした。
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