2018年08月 - しりはた
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カスター将軍最後の抵抗

翻訳
08 /18 2018
Custer's Last Stand
投稿者:Missy76AL

 私はよくよく状況をつかんでおくべきでした。私は6年生に進級した暁に、自分のミドルネームを「トラブル」と綴ることに決めました。だってみんなキュートだと思うでしょ?私は二番目の子にして末っ子で、「しまった忘れてた、まあいいか」を人生のモットーとして生きていました。もはやお尻を叩かれていたのは過去のこと。過去というか、正しくは古代の遺物。それにお尻ペンペンが日常だった時でも、膝の上に乗せられて数発ぺしぺしされるだけ、ヘアブラシを使われる時でも同じ数で、それを超えた経験なんてありませんでした。姉は私よりずっと厳しくお尻を叩かれていたけれど、彼女は私より3歳も年上なんだからきついお仕置きは当然だと私は思っていました。

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おしゃべりのお仕置き

翻訳
08 /18 2018
too loud
投稿者:サマンサ

 私が子供だった1950年代には、お尻のお仕置きは常識で、親に従わなければお尻をひっぱたかれると私達一つ屋根の下の子供たちは肝に銘じていました。私はあるお仕置きを良く覚えています。その時お尻を叩かれたのは、当時10歳だった私と、当時13歳だったマットという名の兄でした。

 マットと私は長男長女だったのでとても仲が良い関係にありました。ほかの弟妹たちは上から順に、8歳の妹レベッカ、7歳の妹メーガン、5歳の弟ベン、3歳の妹メアリー、そして1歳の妹ヘザーでした。ヘザーはまだ1歳なので専用の子供部屋を使っていました。そのほかの子供たちは二つの部屋を、マットとレベッカと私でひとつ、ベンとメアリーでひとつ、という風に割り当てられて使っていました。

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酔いから覚めたら

翻訳
08 /18 2018
sobering up
投稿者:ジェーン

 私は教育方針にお仕置きががっちりと組み込まれた家庭に育ちましたが、最も記憶に残っているのは、私が16歳のときにメアリーおばさんの家で受けたお仕置きです。

 おばさんの家は7人の女の子と3人の男の子を育てる大家族でした。ある年の夏、私はカントリーフェアを見に来るように誘われて、その家で数週間を滞在させてもらうことになりました。

 私はフェアの会場でビールが入ったグラスが放置されているのを見つけました。私は一線を踏み越えてそれを飲んでしまいました。私は千鳥足になっていましたし、家に帰る道中、おばさんは私の息がビール臭いことに当然気付いたことでしょう。しかしおばさんはその日の夜は何も言わず、私は悪事がばれなくて済んだと考えてベッドに入りました。

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我が家のお仕置き

翻訳
08 /18 2018
Family Routine
投稿者:エリカ

 以前ご紹介したのは、ふさわしくない言葉づかいをした私の口を母が石鹸で洗い流した方法でした。今回は、私も含めた家の子供達がお尻を叩かれる罰を受けるときの様子についてお話したいと思います。罰の段取りは私達が幼いころから18歳か19歳になって家を出るまで一貫して変わりませんでした。
 私にはふたりの男兄弟とひとりの女兄弟がいて、家のルールは私達にはっきりと提示されていました。割り当てられた家の手伝いを忘れないこと、門限を破らないこと、そして大事なこととして学校の成績を良い状態に保っておくこと。親に多かれ少なかれ無礼な態度を取ったときや、校則に違反したときには、いずれの場合も厳しい罰が待っていました。
 両親はそうした違反の数々を、家族の問題として捉えていました。違反した子供は家族全員に失礼な行為をしたと考えていたのです。そのため、罰は家族全員がかかわる形で執行されました。そうすることで、家のルールは必ず守られるべきものであると皆が再確認できるのみならず、罰を受ける子供に恥ずかしい思いをさせる効果も生まれたのでした。
 家のルールを破った子がいると、その子にはまず罰が宣告されました。両親は頭に血が上った状態でお仕置きすることは決してありませんでした。お仕置きはよくよく計画されて行われるべきものだったのです。お仕置きの時間は、夕食が終わり台所の片づけが終わった午後8時と定められていました。もしある晩に誰かがお仕置きされることが決まっていれば、夕食の席で発表があり、その後家族全員がリビングに集まり一部始終を見届けることになりました。
私の考えでは、お仕置きで最悪なのは待機時間でした。
 父がお仕置きをしないというわけではありませんでしたが、ほとんどの場合、お尻を叩くのは母の役目でした。私達を膝に乗せてヘアブラシか木べらでお尻を叩くのが母のお気に入りのやり方でした。一方、父は椅子の背に上体を預けた私達のお尻にベルトを使いました。道具に多少の変化はありましたが、ほかはいつも同じ段取りでした。まず台所の椅子がリビングに運び込まれ、お尻を叩く道具が椅子の座面に置かれました。お仕置きを受ける子供(達)は椅子の前に立って、たいていはその道具を見つめ、両親が来るのを待ちました。
 その間、ほかの家族はソファか椅子に座りお仕置きを待ちました。待機時間は恐怖と絶望を感じる時間で、長さは少なくとも15分、もし私達全員が罰を受けるときは1時間にも及びました。同居しているおばは常にリビングの特等席に陣取り罰を待つ私達を非難する言葉を浴びせかけてきたので、待機時間はさらに耐えがたいものとなりました。
 そしてようやく、父か母がリビングに姿を現します。母の場合は、椅子に座り今回の罰の理由を述べて、罰を受ける子供(達)に準備を促しました。ここで子供達は腰から下は裸になりました。私達は成長すればするほど、裸になるこの段階で耐えがたい恥ずかしさを感じるようになり、隠しておくべきものを隠すため、皆が手で前を覆って待ちました。
 母に名前を呼ばれた子供は、膝の上におずおずと上半身を乗せました。母は私達のお尻をヘアブラシか木べらで撫でるようにして、その時にはすでに罰を受ける子供のすすり泣きが始まっていました。そしてお尻叩きが始まりました。
 強く間隔の短い叩き方で、お尻の全面をカバーするようにお仕置きははじまります。私達はすぐにもがきはじめ、両脚を空中で全力でばたつかせました。リビングは私達の泣き声で満たされました。
 母は叩く数を決めておらず、私達が泣き喚いて赤ん坊のように口からよだれを垂らしお尻が深い紅色に染まるまで、まるで永遠に終わらないかのようにお仕置きを続けました。もしも子供達がお尻をかばうために手を後ろに出したとしたら、母はただ手を止めて待ち、数分後にはいままでよりも力のこもった終わらないお尻叩きがはじまることになりました。ですから、子供達はなんとしてでも努力して、お尻をかばわないように我慢する必要がありました。
 お尻を叩き終えると、母は私達を膝から下ろして目の前に立たせました。私達はその場にとどまったまま、駆け足するみたいに足踏みして、痛いお尻をさすりました。恥ずかしいところを皆に見えてしまっていても、構ってはいられませんでした。母は私達の腕をつかんで暖炉まで引っ張っていき、そこで立たせました。続けてほかの子供がお仕置きが行われる時もそこで待たされました。たいてい暖炉の前のお立たせは1時間ほど続き、その時間で私達は痛みを和らげるためにお尻をさすり、涙を乾かしました。
 全員のお仕置きが終わると、私達は自分が脱いだ服を拾い集めさせられて、それから自分の部屋に連れていかれて朝まで外に出ないように命じられました。
 私は、大学に通うために家を出るまで、平均して1カ月に一回のペースでこのお仕置きを受けていました。記憶している限り、子供達のうち誰かがお仕置きを受けることなく一週間が過ぎることはなかったと思います。
 お仕置きの後、お尻は数日間ひどく痛みました。それでも、怒りにまかせてお仕置きされたと私が感じたことはありませんでしたし、大事なのは、当時私はお仕置きは完全に自分が悪いことをした結果であると納得して受けていたことです。罰はもっとも苦痛を伴う経験になるように考え抜かれ実行されていましたが、その甲斐あって私達は責任を学び、より良い人間に成長することができたのです。

毒を出す

翻訳
08 /18 2018
Cleaning out the Poison
投稿者:ウォルター

 当時私は8歳で、鼻高々だった。私は兄のタバコを2本吸って、それがばれていないと思っていたのだ。しかしキッチンに入ったところ、それが正しくないことはすぐにわかった。母が待ち構えていたのだ!
「すぐに自分の部屋に行きなさい。ママの目はごまかせないよ。靴とズボンは脱いでおく。ママが呼んだらすぐに来ること」 お察しの通り、お尻ペンペンは確定しているようだった。
 すぐに母が私を呼ぶ声が聞こえた。「こっちだよ!」声はバスルームから聞こえてきた。私がバスルームに入ると、母が便座に腰をおろし、脇の洗面台の上にはヘアブラシと洗面器一杯の水、そして浣腸用の小さなポンプ(Enema bulb)が置いてあった。
 「ママ!浣腸は嫌い!やめて、お願い!」母は私に近くに来るように合図すると、下着を膝まで下ろし、私を膝の上に乗せた。
 「タバコは身体に毒なの!だから毒を出してあげるんです。その間に悪い子のお尻はほっかほかにしてあげるからね」
 母の手がお尻を割り開くのを感じ、潤滑剤の塗られた冷たい浣腸用ポンプの先がお尻に入ってきた。お湯といってもいい温度の水が勢いよく流し込まれるのを感じた。ポンプの先端が抜かれたと思ったら、母の平手がきついお尻叩きをはじめたのがわかった。10発のあと、再度ポンプの先端が挿入された。次に来たのはヘアブラシで、左右のお尻をそれぞれ10発ずつひっぱたかれた。
 私は、もう許してと泣き叫んでいた。お尻は燃え上がるように痛み、便意もこみあげてきていた。それから3回、冷たいポンプの先が挿入され、おなかがお湯でぱんぱんになっていくのを感じた。挿入されるたびにお尻叩きが続いた。平手のときもあればヘアブラシのときもあった。
 ついに母は私を膝から下ろし、用を足すことを許してくれた。母はバスルームから出ていき、私は一人残されて、自分の過ちについてじっくり考えたのだった。少しすると母はドアから顔をのぞかせて、「終わったら自分の部屋に来なさい」と私に声をかけた。
 部屋に入ると、母は私のベッドの横にいた。「これからストラップで5発だからね。そうしたらベッドに入ってよし」
 私はベッドにうつぶせになり、すでに腫れ上がったお尻にストラップが振り下ろされた。お尻がほかほかの熱を持っているおかげで私はその夜なかなか寝つけなかった。良い子になろうと私は心から誓ったのだった。

数学のテスト

翻訳
08 /18 2018
the math test
投稿者:アンドレア

 私は当時7年生[訳注:日本の中学1年生に相当]で、ウィリアムズ先生の数学の授業を受けていました。

 普段の私は出来のいい生徒でしたが、そうでないときにはいつも、一番の親友マリセラが助けてくれました。彼女の席は私のすぐ隣で、私が答えがわからないでいると正解を教えてくれました。私達は自分たちがしている行為をカンニングと思っていませんでした。そう、あの日が来るまでは……。

 その日はあるテストの返却日でした。私達二人が返してもらった答案には点数がついておらず、代わりに「授業のあとで先生の所に来ること」というメモが書いてありました。私達は顔を見合わせ、自分たちがまずい事態に足を踏み入れていることを自覚しました。

 授業の後でウィリアムズ先生は私達に、マリセラと私の答案の回答が非常に似ている上に、ある問題の回答で同じケアレスミスをしているのを見つけた、と言いました。先生は私達にこんなことが起こった理由を知っているかと尋ねてきましたが、私達はふたりとも事実を明かしませんでした。

 先生は言いました。「それなら授業の理解度を確かめてみましょう」

 先生は同じ分野だけれど違う問題が載ったテストを、教室の端と端の席に座らせた私達に解かせました。私は本気を出しましたが、問題をただ形だけ解いているような感じでした。先生は私達が提出したテストを見比べ、マリセラの点数は90点だったと発表して、テストのときは答案を見られないよう気を付けるようにと彼女に注意しました。そして先生はマリセラはテストの結果は合格と告げて、彼女を解放しました。

 「アンドレア・リン、私はとても驚いてますよ、それにがっかりしています」私は自分の靴を見つめていました。「先生が失望したのは、あなたがカンニングしたからですけれど、それだけじゃありません。なぜ先程問い質された時に素直に白状しなかったんですか?先生はそのことにとってもがっかりしました。あなたのお母様に電話します。お母様がなんておっしゃるか、見物ですよ」

 「先生、お願いします。母に電話は許して下さい。放課後居残りしても良いし、同じ文章を書く罰(write lines)ならいくらでも受けます。許して下さい」「一緒に来なさい。これはお母様に知らせないといけないことなんですから」

 運命は変わるはずもなく、先生は母に電話をかけてしまいました。先生は受話器を私に渡し、先生が電話をかけた理由を母に直接説明させました。私は泣いていましたが、先生は電話で母にすべてを説明するように命じて譲りませんでした。私は今回のテストで0点をつけられ、3日間の居残りを言い渡されました。その日は学校にいる間ずっと、玄関から家に入るとき待ちうけている恐怖で私の頭の中はいっぱいでした。

 私が家に帰ったのを見て、母はこれだけ言いました。「おかえりなさい。2階よ」 2階にあがっても、母は一言も口を聞きませんでした。無言で叔父さんのベルトを持ってきた母はベッドを指差しました。お仕置きの作法はわかっていましたし、そのことに不満の声をあげるような状況ではないこともわかっていました。

 私はスカートをたくしあげ、ショーツを足首まで引き下げました。ベッドに身体をよこたえて、反対側の柵に触れるまで両手を伸ばして最悪に備えました。お仕置きはまさに最悪でした。たぶん30発かそれ以上、これまで経験したお仕置きの中で一番長い時間をかけてお尻を叩かれて、半分も終わらないうちに私は大声をあげて泣いていました。

 母はお仕置きを終えると、起き上がって自分が戻ってくるまで部屋から出ないで立って待っているようにと言いました。お尻をさするのも下着を元に戻すのも許されず、20分ほどして戻ってきた母の手には下の階のデスクにおいてある金属製の定規が握られていました。

 「さっきのベルトはテストでカンニングしたぶんです」と母は言いました。「先生に嘘をついたこと、そもそもテスト勉強をさぼっていたこと、そのぶんの罰はまだ済んでません」

 母は私の姉が使っているデスクチェアに座り、私を膝に乗せました。ベルトで打たれるようになってからはこの姿勢でお尻をぶたれたことはありませんでした。すでに赤く染まり痣に覆われ痛みが走るお尻を、母は持ってきた定規で30発くらいぶちました。

 このお仕置きが終わると、さっきよりも少し長い時間また私は立たされて、それからようやく、服を着て宿題を済ませるよう言いつけられました。

 夕食の席で母は、姉とふたりの弟と叔父さんに、私のしでかしたこととお仕置きの次第を包み隠さず話しました。そのとき、私のほっぺたとお尻のどちらが真っ赤になっていたのか、いまでも答えは出せそうにありません。

おばさんの膝の上

翻訳
08 /18 2018
over mrs johnsons knee
投稿者:匿名希望

 子供の頃を通じて私は数え切れないほどのお尻叩きのお仕置きを経験してきたけれど、これからお話しするのはそんな経験の中で一番珍しい出来事として記憶に残っている。

 私はそのとき10歳で、ジャスティンという名の友達の誕生日パーティに参加したあと彼の家にお泊りしていた。ジャスティンが彼の母親に何か反抗してお尻を叩かれそうな気配になったとき、理由はわからないが、私の心にとち狂ったアイデアが生まれた。男たるもの、誕生日にお尻を叩かれるべきじゃない、というアイデアである。

 私がジャスティンの母親にそのアイデアを伝えると、おばさんの返事は、本気でそう考えているのなら私が彼の代わりにお尻を叩かれても文句はないはずだ、というものだった。いったいどういう思考回路をしていたのか、私はおばさんの提案を良い考えだと答えた。僕がジャスティンの代わりにお尻をぶたれます。おばさんは私が承諾するとは予想していなかったに違いない。おばさんはそれから数分を費やして私の考えを変えようとしたから。

 しかし私は頑固だった。それで、私が本気でこのアイデアの実現を望んでいると確かめてから、おばさんは肩をすくめ、ジャスティンのほうに向き直って言った。「この経験があなたのためになると良いわね」

 このやりとりのあいだずっと、ジャスティンはただそこに突っ立って押し黙っていた。男の子なら無理もない、彼はお仕置きを逃れることができて喜んでいた。しかし同時に、私の行動に驚きを隠せていない様子だった。

 ジョンソン夫人は私とジャスティンを彼の部屋に連れて行くと、私に下着姿になるように命じた。私が言われたとおりにすると、おばさんは私を膝の上に乗せ、平手でお尻を叩き始めた。お尻は痛かったが、そこまでひどくはなく、私はこの状況をさほどダメージは受けていない状態で切り抜けられるかもしれないと思い始めていた。

 しかし50発の平手の後でおばさんは手を止め、私は下着のゴムの内側におばさんが指を引っかけたのを感じた。反射的に私は抵抗をはじめたが、ジャスティンの身代わりをしていることを思い出したので、その後は膝の上でなされるがままになるしかなかった。

 そして木べらが登場し、おばさんは私の蚯蚓腫れで覆われた真赤なお尻でもって、おばさんの家で腕白をした男の子の身に何が起こるか、しっかりと見せつけたのだった。木べらは息もつかせぬ速さでお尻を万遍なく襲ってきた。双球を交互に、あるいはお尻の上の方から下の方へ。ふとももだって見逃されることはなかった。

 1分後。私は冷静さを失い、うめき、両脚をばたつかせ、木べらを避けようと全力を尽くしていた。おばさんは両手をつかんで私の背中に回し、お仕置きを続けた。

 ジャスティンの様子が目に入った。お仕置きが進めば進むほど居心地はますます悪くなっているようで、彼は猛烈に後悔しているようだった(これはおばさんがジャスティンに望んだ精神状態だっただろう)。それから3分ほどお仕置きを続けた後、ようやくおばさんは動きを止めた。おばさんは私を膝から下ろすと部屋の隅に連れて行き、頭の上で手を組んでいるように言いつけた。ジャスティンは私の痛々しいお尻を見つめないわけにはいかなかった。おばさんはここぞとばかりにジャスティンにお説教をはじめたのだった。

 おばさんは最後に、ジャスティンに言いつけて私のお尻を触らせて、その熱と痛みを想像させた。その頃にはもうジャスティンは泣きじゃくっていて、僕が悪い子でした、と私とおばさんに謝り通しだった。ジャスティンはおばさんに言いつけられた通りに、私が30分間部屋の隅に立たされている間、その様子をそばに立ってずっと見ていなければならなかった。

 この経験は実際のところジャスティンにかなりのインパクトを与えたようだった。その日から、彼は以前と比べて非常に行儀のよい子供に変わったので。私はといえば、お尻を誰かのために差し出すのはもう懲り懲りだという経験はつんだものの、それからも悪さをして何度となくお尻を叩かれたのは相変わらずだった。

遅れた帰宅

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08 /18 2018
Losing Track of Time
投稿者:匿名

 私は1970年代に子どもを育てていた母親です。当時は、幼い心はお尻を叩くことでまっすぐ育つという固い信念を持って子育てをしていました。シングルマザーとしての子育てを通じて、お尻のお仕置きこそが二人の娘を真人間に育てたのだと私は思っているし、もし今子育て中の母親達が子供達のお尻を叩くことを躊躇しなければ、少年犯罪も目に見えて減ることになると私は思っています。

 1972年の秋に与えたあるお仕置きは印象に残っています。娘のクリスティンは当時13歳でしたが、学校から帰ってくるのが2時間も遅れたのです。私は心配しすぎて気分が悪くなりました。ついに、クリスティンは空中ブランコにでも乗ってきたかのようにキッチンに現れました。娘は何も異常はなかったかのようにふるまいました。しかし、私は娘に罰を与える意思を固めていました。私は娘に時間を知らせました。 「やだママ、こんな時間になってるなんて、私ぜんぜん知らなかった!」

 私は娘の小芝居を無視しました。お尻を叩くつもりだと彼女に伝え、腕をしっかりつかむと私の寝室まで連れていきました。「服を脱ぎなさい」そう私は命じました。お尻をお仕置きするときはいつも、娘たちは裸になるのが決まりでしたから。娘は服を脱ぎ、すぐに生まれたときと同じ素裸になりました。娘は泣いて抗議をはじめましたが、意味はありませんでした。

 私はこれまでも娘のお仕置きによく使ってきたベルトを手に取ると、「ベッドにうつぶせになりなさい」と命じました。覇気をなくした娘は言いつけに従ったので、お尻のふくらみは上向きに突き出るかっこうになりました。

 私はベルトを二つ折りにして、厳しく娘のお尻を打ちはじめました。左右のお尻を横切るように、何本も赤い線が浮き出てきます。娘はマットレスに顔をうずめて泣き声をあげました。私はさらに強くベルトを当てます。ベルトがふとももに巻きつくようにあたると、娘は反射的に片方の手をそのあたりに持ってきたので、私はそれをぴしゃりと払いのけました。

 「小さい子でもあるまいし。ルールは知っているはずです。10発追加します」

 私はまた元のように、娘のお尻にベルトを当てはじめました。娘が金切り声をあげます。バチッ、バチッ、バチン!次の3つは間隔を空けずに打ちました。娘は我を失い泣きじゃくっていました。力をこめた40発を打ち終え、私は手を止めました。私はうつぶせの娘のわきに座り、熱を持ち赤く色づいているお尻に手を置きました。

 「ママなんて死んじゃえばいい!」娘がぼそっとつぶやきました。

 大変なショックを受けました。ただちにベルトを手に取った私は、手加減せずに10回お尻を叩きました。それから私はベッドに再び腰を下ろし、反省したか娘に尋ねました。娘は歯を食いしばりながらも大声で叫びました。「反省なんてしない!ママなんていらない!」

 私は、娘がいま垣間見せた傲岸不遜な精神を消し去ろうと決意しました。まずは平手でお尻を叩くことにしました。1分ほど叩いた後、またベッドの脇に立って、ベルトで再度40発お尻を打ちました。終わる頃には、娘のお尻は黒ずんだ紫色で覆われていました。たんすにベルトを戻すときに振り返ってみると、娘がお尻を手でつかんでいるのが見えました。反省できました、と娘は言いました。それで私も、ママもあなたを許します、と言葉を返しました。

 次の日の朝食時、クリスティンは元気を取り戻している様子でしたが、椅子に座ったままでいるのだけは耐え難いようでした。妹のミシェルは昨日何が起こったのか知っていて、クリスティンをからかいはじめました。私はミシェルの手をとると、彼女のスカートをたくしあげショーツを足首まで下ろしました。それから私は調理用のスプーンを使ってミシェルの裸のお尻にお仕置きしました。

 つけたしのようになりますが、こうしたお仕置きは確かに効果がありました。私は現在、2人の成人した娘と素晴らしい関係を築いています。

お洋服を買いに

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08 /18 2018
shopping for new dress
投稿者:サラ

 私が8歳の頃、ある日の朝、母は私と妹を連れて新しい服を買いに行く予定を立ててくれた。私はおおはしゃぎした。我が家ではそんなお買いものは珍しいことだったし、新しいお洋服を買ってもらえるのはとても素敵なことだったから。というか、喜ばない人なんていないでしょ?とにかく、私達はまず妹の服を探して1時間くらいを使った。私はそれで少しむっとした。私は一番に生まれたお姉ちゃんなんだから、一番に服を買ってもらうのが当たり前。そう思ったのだ。

 私は5分間駄々をこねうなり声を上げた。母がイライラしているのは表情で分かった。母はついに大きな声をあげた。「いますぐ文句を言うのをやめなさい、皆さんの目の前でお尻を叩く事になるけれどいいのね?」私はありえないと高を括っていた。私も妹も、これまで母に外でお尻を叩かれた事はなかったので。お察しの通り、私はその見立てが甘かったことにすぐ気づく事になるのだけれど……。

 母の脅しの効力は10分間しか続かなかった。私の怒りは再燃しまたもや駄々をこね始めた。子供時代、だれもがそんなふうになったことがあると思う。怒りがおさまらない私は当時6歳だった妹を小突きながら繰り返し言った。「嫌い、大嫌い!死んじゃえ!」

 この言葉を耳にするやいなや、母は私をひっ捕まえて、私たちが買い物をしていた売り場の近くのベンチに座った。私を膝の上に座らせると、母はハンドバックの中をすごい勢いでひっかきまわしはじめた。自分を待ちうけているのは母から家で受けてきたのと同じ本気のお仕置きだと私は覚悟を決めたが、お店にいる人々の目の前で受けなければならないのは輪をかけて最悪だった。

 いつも私達のお仕置きに使っているパドルみたいなヘアブラシをついに探しあてた母は、私を膝の上に乱暴に乗せると、パンツとズボンを一掴みにすると力を込めて一気に引き下ろしてしまった。母が私のお尻をひっぱたきながらお説教をはじめると、一気に店内の人間から注目が集まった。「お店でお買い物をする時はお行儀よくしなさいって何度言ったらわかるのかしらね!」(バシッ!)「口で言ってもわからない悪い子にはお仕置きが必要です」(バシッ!)そして、母はもう何も言わずに堅いヘアブラシでお尻を叩き続けた。

 私は見境なく泣き叫んでいたから、30発を超えてからは叩かれた数もわからなくなってしまった。店内にいる誰もが、どこかの子供が泣きわめく光景に目を釘づけにしていた。「なんてこと!いくらなんでも…ねえ?」とか「いつになったら終わるんだろう?」と口々にささやかれる声。永遠とも思える時間が流れた後に、母は私を膝から下ろした。私は顔もお尻も真赤で、お尻の感覚は麻痺していた。手でさすってみたけれど、その感触すら私のお尻は感じられなくなっていた。

 私はパンツを上げて、ズボンを穿き直した。妹の服を3着だけ買って私達は店をあとにした。車で帰る途中、家に着いたらすぐにパパにもお尻を叩いてもらうと母は私に言った。さっきのお仕置きよりもたっぷり時間をかけた、うんと厳しいものにしてもらいますからね。

 詳細は省くけれど、その日のパパは、私の小さなお尻が青あざで覆われ黒ずんだ色になるまでお仕置きを終わりにしてくれなかった。とにかく、ママが生理中の時はお買い物についていってはだめ。あの日、私はそう肝に銘じたのだった。

双子のお仕置き

翻訳
08 /18 2018
spanking the twins
投稿者:キム

 60年代初頭、私は17歳で、よくベビーシッターをしてお金を稼いでいました。

 ある家でベビーシッターをしたときの経験は、決して忘れることができないと思います。その家には9歳の双子の男の子と7歳の女の子の3人の子供たちがいました。子供たちはふだんは良い子でしたが、特に双子の男の子たちはときおり腕白になることがありました。

 ある日の午後、その家に仕事に入った私は子供達の面倒を見るのにさんざん苦労をする羽目になりました。双子の面倒だけを見ていればいい日だったから楽ができるという私の考えは間違っていたのです。男の子たちは私にとても失礼な態度を取り続けたので、罰として私は部屋に行くように命じました。

 30分後に様子を見に行った私の目に飛び込んできたのは窓が開いて双子が消え失せている光景でした。私は狂ったように双子を探さなけれればならず、それから30分後に、彼らはまるで何も起こらなかったかのように部屋に戻っていたのです。

 なにしろ60年代のことです。私はいたずらっ子たちのお尻を叩いてお仕置きすることにしました。双子をベッドに座らせて、私は彼らの目の前の椅子に腰を落ち着けました。私は片方の男の子に自分の右側に立つように言いつけて、彼のズボンと下着を下ろしはじめました。男の子は恥ずかしがっていましたが、ヘアブラシを持ってくるとの脅しは効いたようで抵抗をやめました。

 私はそれまで男の子たちのお尻を叩いたことはなかったので、彼らはこれから私に何をされるのかわかっていなかったと思います。次に私はもうひとりの男の子を左側に立たせて、やはりズボンとパンツをおろしました。

 お仕置きが男の子たちのためになること、そして部屋から逃げ出すのがとても危険なこと。それらをこんこんと諭してから、私は左に立たせていた男の子を部屋の隅に行かせて、彼の兄弟がお仕置きされている間その場所で待たせることにしました。

 次に私は、右側に立たせていた男の子を膝に腹ばいにさせて、左右交互に彼のお尻をだいたい60回叩きました。

私が手を止めた時、彼のお尻は真っ赤に染め上げられていました。彼を部屋の隅に立たせて、待たせていた男の子も同じようにお仕置きしました。20分間部屋の隅にふたりを立たせて、それで許してあげました。

 帰宅した双子の母親に、お仕置きのことを言うつもりはありませんでした。しかし母親は双子が生意気盛りなことを知っていましたから、彼らが罰を受ける羽目になったかどうか私に尋ねてきました。一通りの説明を受けた母親は顔を赤くして、私に謝りました。

 それでおしまいと私は考えていましたが、母親は双子の男の子を呼びつけると、恥ずかしいふるまいをした彼らのお尻を母親と私がもう一度お仕置きすると宣言しました。大人に逆らうわけにもいかないので、私は渋々母親の言う通りにしました。

 その日、双子の男の子たちは、一度ではなく二度の追加のお尻ペンペンを受けなければなりませんでした。彼らは、母親と私から一度ずつお尻を叩かれたのです。その日仕事を終えて帰る私は手に痛みを感じていましたが、双子たちの腫れあがったお尻の痛みに比べればなんてことはなかったでしょう。

iwayuru

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